私とスキーの思い出話|スキー事故と病院生活

スポンサーリンク

前回のブログでは私が大学時代に栂池高原スキー場のロッジで住み込みバイトをしながらスキー検定1級の資格を目指していた思い出を書かせていただきました。今回はその後自分がスキー事故に合い1ヶ月以上病院での入院を余儀なくされた事を書かせてもらいます。

私が栂池高原スキー場のロッジでバイトを始めて約1ヶ月半ぐらいでしょうか?一度バイトを始めた時に試しにスキー検定1級のテストを受けてみたのですが、あっけなく落とされました。結構自分の滑りには自信があって1級ぐらいなら簡単に取れるんじゃないか?と高をくくっていたのですが、いざ落とされるとショックで結構へこみました。

それからもう一度自分には何が足りないのかをよく考えて、今思えば中途半端さだったのだと思いますが当時のスキー検定といえば基礎スキーの技術を認めてもらう試験であり、さまざまな技能を安定してダイナミックに滑れるかが試されますが、私が使っていたスキー板がモーグル向けのスキーでそれを使っている自体向かう方向が違うというか、当時の流行に流されて真剣味に欠けていたといたと思います。

とは言えもう一度挑戦しようと奮い立ち1か月近く毎日午後に大回転や小回りターン、如何に急斜面でもスキー板をずらさずダイナミックに滑れるかを追求しました。

そしていよいよ再挑戦する予定だったスキー検定1級試験の前日、いつもの様に栂池高原スキー場のチャンピオンコースに向かったのですが、この日は朝から休日で午前中から滑り出したのだと思います。結構斜面が凍っていてアイスバーン状態になっていたことを覚えています。そんな中、朝から結構混み合っていて人が多かったのですが、自分としては大回転の練習がしたくてアイスバーン気味の斜面を大きく弧を描いて滑っていたその時です、ものすごいスピードでコントロール不能になったスキーヤーが急斜面を暴走してきたのです。自分は避ける時間も無いまま思いっきり右脇腹あたりにスキーヤー体をまともに受けてそのまま2,3メートル吹っ飛ばされました。あまりの衝撃にしばらく何が起こったか分からず、衝撃で呼吸も出来ずしばらく「うううっ」とうなるばかりでした。今こうしてブログを書いているとその時の状況が思い出されて吐き気がしてきます。それほど、恐ろしい衝撃と苦しさでした。

ただ、しばらくすると呼吸も整ってきて痛みはありましたが立ち上がることが出来たので、駆け寄ってこられたスキーヤーの人が「だいじょうぶですか?」と声をかけてこられたのですが、「大丈夫です」と強がって答えました。今思えばどうしてこの時大丈夫ですと言ってしまったのか、まあ大概男はこういうときは強がるもんなんですけど・・・、でも後から起こることを考えるとこの時相手の住所なり連絡先を聞いておけばよかったなと。

そのまましばらく滑っていたのですが、どうも体に異変が起こってきたのです。段々目の前が暗くなってきて、吐き気もしてきて、冷や汗も出てきました。本当にそれはもう苦しくて苦しくて、早くなんとかしないとと思いスキー場の救急施設に駆け込みました。ところが、休日ということもあって多くのスキーヤーが順番待ちをしていて自分の前には20人以上の人が待っていたと思います。

でも順番は守らないとと思ってそのままもう今にも倒れそうな状況だったのですが、汗をだらだら掻きながら1時間以上待っていたのだと思います。そんな状況をみて流石にこれは重症だと思われたのか順番を飛ばして診察になったのですが、その時はもう体が限界を迎えていてそうとう酷かったのでしょうね、すぐに大病院に緊急搬送ということになり10キロほどある安曇野病院という所に救急車で運ばれました。その頃にはあたりは薄暗くなっていたことを覚えています、なのでほとんど半日ぐらい時間が経っていたのでしょう。運ばれてからまずおしっこがしたくてしたくて仕方なかったのですが、すでに体がもう動けない状態になっていたのでそのまま尿瓶で尿を出してもらったのですが、その尿を見てびっくりしました。真っ赤な血尿が尿瓶一杯に溜まったのです。それを見た途端、ああ俺はもう死ぬのかな?と正直思いました。本当に意識がもうろうとしていたし、血を見ると気分も萎えますね。その後、どういった検査があったのか良く覚えていませんが検査後は病室に運ばれて安静にするように言われました。その頃には少し意識もしっかりしてきていたのか、点滴の効果も出てきていたのだと思いますが。ただ入院中もっとも痛みを感じたのが尿道カテーテルを入れるときでした。看護師さんに尿カテを入れてもらうのですが、なんだこの痛みはと思うほど今までに経験したことのない激痛が走りました。こんなに痛くて俺の尿管は大丈夫なのか?と思うぐらいに。

それからは約2週間、ベッドでの安静を言われて立ち上がることも寝返りを打つことも出来ない状態になりました。診断としては腎損傷と言われて、あとでレントゲンを見せてもらったのですが右の腎臓がぱっくりと半分に割れていました。えっ、これ片方の腎臓もうダメやんって瞬間思ったのですが安静に過ごすことによって腎臓がもう一度くっつくということでなるべく体を動かさず安静にするように言われました。ベッドも電動のリクライニングで食事の時は上半身だけをゆっくり起こして食事を食べてはまだすぐに横になってひたすら上を向いている生活でした。

この生活は流石に辛かったですね。テレビも見れないし、出来ることと言ったらウォークマン(今では化石)で音楽を聴くか、寝転びながら読書をするぐらいです。でもすぐに腕が疲れてくるので長時間はできません。ひたすら寝るか、天井をみてぼーっとしていました。体重もどんどん減ってきてしまって60キロぐらいあった体重がマックス48kgぐらいまで落ちてしまったのを覚えています。本当に辛い生活でした。

そんな状態でなんとか2週間のベット生活を終えて、尿カテもとれて久しぶりに自分の足で立ち上がって、まだ点滴は付けたままなので点滴をぶら下げながらトイレに行くのですが、もうふらふらでまるで生まれた子鹿が足をブルブル震わせながら立つような具合にベットから立ち上がるのに苦労をしました。そのままわずか20メートルぐらいの場所にトイレがあるのですがそこまで歩くのにふらふらしながら歩いて行ったのを覚えています。

なんとかベットからの一歩も動けない生活からは免れたのですが、それでも外出などは許されずひたすらベッドの上での生活を続ける日々が続きました。自分が入院していたのが6人部屋だったのでテレビを見ることもできず、朝起きては病院のベランダに散歩に行っては外の空気をすってそれからはベッドの上で読書、お昼を食べてからは音楽を2時間ぐらい横になりながら聞いてはまた読書。そして5時ぐらいになったら夕食が運ばれてきて食べるというルーチン生活を繰り返していました。楽しみと言ったら3度の食事ぐらいのもので、病院食なのでめちゃめちゃ薄味でで量も少ない食事でしたが、病院の食事が運ばれてくるコンテナの音が聞こえるとなんとも嬉しさを感じた思い出があります。18歳の若い自分が1日中そんな拘束された生活を送らざるを得ない状況になんともやるせなさを感じていましたが、今となってはそれも人生のスパイスとして良い経験だったかと(何かの歌詞みたいですが・・・)

ただスキー場の近くの病院だったので同じ年頃の若い男女が骨折などでたくさん入院していました。同じ病室にいた若い同い年ぐらいの子とも仲良くなりよく屋上で一緒に話をしたりしてました。その他骨折で車椅子生活をしていた女の子とも仲良くなりこれからの将来について屋上で語り合ったのを覚えています。今ではもう連絡も取れませんがきっとみんな良い大人になってどこかで活躍していることでしょう。

約1ヶ月半ぐらいでやっと尿検査で朝の検尿でタンパク量が下がってきたので退院することができましたが、入院から退院まで遠くの県から長野県の北部まで長い道のりを何度か通ってくれて入院費も出してもらえた両親に感謝します。またバイトをしていたロッジの皆様にも大変ご迷惑をおかけしました。

あれから約30年近くたち今もこうして生きていられることに感謝します。

コメント

タイトルとURLをコピーしました